篆刻雑記(十四)

大和古印について

 

わが国に伝存している最古の印章は志賀島から出土した後漢の時代に賜与された『漢委奴国王』印と思われ、この時代は日本では垂仁天皇八十六年にあたり弥生式土器の時代です。

 

その後、三国時代、魏の明帝に倭の邪馬台国の女王卑弥呼が使者を遣わし、魏帝より『親魏倭王』の称号を受け、金印を賜ったという事が魏志倭人伝に記してあります。残念ながらこの金印は未だ発見されていませんが、前印以外にも大陸の印章が渡来していた事が解かります。

 

しかしながらこれらの印章は我国で制作されたわけではありません。我国において最初に印章が作られ、実際に使用されたのはいつころかというと、まだよくわかっていません。日本書紀に木印(きのおしで)という記述があり、これは木製の印章と解釈されています。この記述によると持統天皇の六年(692年)の前後には印章が使用されていたと推測できます。この後、文武天皇の大宝元年(701年)大宝令が出てこれにのっとり政治が行なわれるようになると、その時に新しい印の制式、様式なども頒布され、律令に基づき日本での官印制度が施行されるのです。これは中国の印章の制に倣って、これを国風に応じ改めて実施したものです。

篆刻雑記(十三)

金印について


内印が金印という事を記しましたが、天正十四年(一五八ニ年)に秀吉が太政大臣に任ぜられ、豊臣姓を賜った時に造った「豊臣」という印文の印面八・九センチ四方の大印が黄金製だったということです。この印は主に海外渡航の際の朱印状に用いられ、その他特に求められ高野山興山寺所蔵の謡曲本にも押印されているそうです。

 

また金印というとすぐ頭に浮かぶのは、国宝に指定されている後漢の時代に光武帝より賜ったという金印です。この印は天明四年(一七八四年)、筑前国那珂郡志賀島(博多の志賀島)から出土しました。高さ2センチ2ミリ、蛇の彫刻を施されたその金印は長く地中に埋もれていたとは思えないほどのまばゆい輝きを放っており、その2センチ3ミリ四方の印面には陰刻(白文)で『漢委奴国王』という五文字が刻まれており、「漢の委(倭)の奴の国王」とか「漢の委奴国王」などと読まれています。「後漢書」の東夷倭伝に光武帝の中元二年(五七年)、倭奴国の使者が朝貢して印綬を賜ったということが記載されており、この金印がこの記述にあたるものなのかどうか真偽をめぐり昔から様々な論争がなされてきましたが、現在ではこの金印を疑う人はほとんどなく国宝に指定されています。邪馬台国論争のよりどころ「魏志」倭人伝にも記されている「奴国」の存在を裏付ける証拠ともいわれたり、「伊都国」のが「委奴」と刻されているというのが前述の二通りの読み方の解釈なのですが、ほかにも解釈があるようです。

 

邪馬台国論争がでてきましたところで、邪馬台国にまつわる金印の話をひとつ。じつは「魏志」倭人伝によると日本には金印がもうひとつ伝わっているはずなのです。景初三年(ニ三九年)邪馬台国の女王卑弥呼は魏に遣使し、翌正始元年に『親魏倭王』の称号と金印を授与されている沿うなのです。中国に貢物を持っていって金印をひとつと銀印を二つ賜っているそうなのですが、おそらく金印の印文は先に述べた『親魏倭王』というものと思われます。この印が出土すれば邪馬台国論争に終止符がうたれるかもしれません。

篆刻雑記(十二)

また事故により内印が改鋳されたことがあり、治暦四年(一〇六八年)十二月、皇居の火災で内印も類焼し、翌年改鋳されています。

 

さらに江戸時代の東山天皇の時、内印が盗難にあい紛失するという大事件が起こっています。やむなく内印は新しく調製されたのですが、その後盗難に遇った御璽が紙屑屋の店頭で発見され献納されました。このため新鋳造印の使用は中止され、この災厄に遇った旧印が明治まで引き続き使用されました。

 

現在宮内庁侍従職で保管され国家の文書などで使用されている『天皇御璽』と『大日本国璽』の両印は明治維新にあたり、明治元年に印司に任ぜられた中村水竹により制作されたものが、明治七年に印文の字体が典雅を欠いているとの理由で、印司の後任に任ぜられた京都の篆刻家、安部井櫟堂により改鋳されたもので、いずれも印面方三寸(唐尺で八・七センチ四方)、重さがそれぞれ四・五キロもある純金製の大印です。押すのも一苦労というところでしょう。

 

先の昭和天皇が崩御された時、新天皇が皇位継承のために最初に行なったのが『剣璽など承継の儀』でした。この儀式は天皇の証となる神器などを承け渡す儀式です。剣璽の剣とは『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』、璽とは『八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)』で皇位とともにある神器とされています。さらにこの儀では、剣璽とともに天皇の印『御璽』と国の印『国璽』も引き継がれるのです。

 

御璽、国璽はもちろんのこと剣璽の璽もこの古代中国のことに由来しているのです。日本皇室は古代中国のならわしの名残を色濃く受け継いでいるようです。

篆刻雑記(十一)

御璽について

内印(天皇御璽)は捺す時に天皇の勅裁を仰ぎ御前で捺されるほど国で最も重要な印なのですが、奈良時代などには天皇の尊厳を示すためと文書の改竄を防ぐため、唐の方式にならい公文書の字面にくまなく捺されるなど使用量が多く、永年の間には磨耗し幾度か改鋳されています。古文書などに捺されている「天皇御璽」の印影は少なくとも六種類以上あるようです。今のところその印影の現存最古のものは、天平感宝元年(七四九年)の『聖武天皇勅書』で、その七年後に書かれた『東大寺・法隆寺献物帳』も同一印によるものです。ほかに平安時代のものが二種、江戸時代のものが一種、明治年間の銅印・石印・金印などが知られています。

篆刻雑記(十)

封泥について


では印は木簡の時代はどのように使用されていたのでしょうか。これは古代中国に限らず、世界中の印章にその例を見つける事ができるのですが、泥土に型押しのように押印していたのです。これは単に印影の違いというだけに留まらず、印の形状、制作方法にもかかわる大いなる変革です。

現在のように紙に印肉のようなもので押捺する場合、当然この印影は平面(二次元)的です。しかし泥土に押印するという事はその印影は立体(三次元)的になるわけです。今でいう白文(陰刻)印は紙に押捺すると文字は白抜きになるわけですが、泥土に押すと文字の部分と印周囲部はレリーフ状に浮き上がって見え(文字部以外が凹む)、視覚的には朱文(陽刻)印のような感覚です。このような官印などを泥土に型押ししたものがたくさん出土し、これらを封泥と呼んでいます。中国収蔵家の中には本来の使用方法による印影こそ正しい鑑賞方法と収蔵や鑑賞の印を泥に型押しして封泥コレクションをしている人もいるくらいです。封泥や古印は相当数出土しており、書道美術館などでも当時の遺物を見ることができます。


この使用方法の違いは印のどの部分が重要かということにも係わり印の製法の変化とも密接にかかわってきます。


紙に押捺するときの印影に与える影響の最も強い部分は印面表面なのですが、泥土に押印する時に最も重要な部分は印面ではなく凹んでいる溝状の部分、特に底の部分なのです。つまりこの溝の底が深さ一定できちんとしたU字状になっていなければ泥土に押す封泥としては使えないという事です。もちろんここがしっかりしている古印は当然紙への押捺にも耐えうるわけですが、逆にいい加減なものは泥土への押印には役立たないという事で、これは古印の時代判別にも一役かうことになっています。紙に押印するようになってからも鋳造印は官印でもつくられていますが、朱文印が多く泥土に押すと文字が凹むため風采の上がらない印影となります。


現代の篆刻はというと紙に押印する事がほとんどで印材を印刀を使って刻るわけですから当然封泥としては使えませんし、その必要もありません。しかしたまに陶芸家などからの依頼で焼き物に押す印を頼まれるときがあるのですが、この時は泥土に押す用途ですから、刻線の底まで気を配って刻らねばならないわけです。

篆刻雑記(九)

印の使用方法の変化

紙は後漢時代の蔡倫によって発明されたとされていますが、実際には前漢墓より出土しているので蔡倫は紙の製法をまとめて皇帝に上申したか、安価に大量の紙を作る技術を開発したと考えた方がよいのでしょう。漢代においてはまだ紙の発明、普及がなされておらず、印が紙に押捺され使われるようになったのは三国時代以降と思われます。それ以前は印の使用方法も現代とは大きく異なるのです。

木簡について

紙の普及により文書保管は飛躍的に向上しました。それまでは木簡・竹簡という木や竹の札(よく取り上げられるのは細長い札を簾のように編んだもので、筆巻きのように巻いて保管していました。今でも本などを一巻、二巻と数えるのはその名残りです。手紙の類などは板状のものに書いてあるものが多かったようです)に文書や手紙などを書いていました。これは紙に比べると著しくかさ張り保管場所もとるし、造る手間も書きにくさも紙の比ではありません。大量に紙が作られる製法が確立し、その利便さが解かってきたらおそらく紙は凄い勢いで木簡・竹簡に取って代わったと思われます。

わが国でも木簡は出土しており、今のところ最古の年代の記してあるものは大阪市の難波宮跡から出土した遺物で「戊申」(六四八年)のもので、これは大化の改新の三年後にあたり、興味深い内容がたくさん見て取れます。わが国でも木簡は当時の生活習慣、歴史的事実を伝え知る貴重な資料です。

篆刻雑記(八)

印の使用方法の変化

紙は後漢時代の蔡倫によって発明されたとされていますが、実際には前漢墓より出土しているので蔡倫は紙の製法をまとめて皇帝に上申したか、安価に大量の紙を作る技術を開発したと考えた方がよいのでしょう。漢代においてはまだ紙の発明、普及がなされておらず、印が紙に押捺され使われるようになったのは三国時代以降と思われます。それ以前は印の使用方法も現代とは大きく異なるのです。


木簡について

紙の普及により文書保管は飛躍的に向上しました。それまでは木簡・竹簡という木や竹の札(よく取り上げられるのは細長い札を簾のように編んだもので、筆巻きのように巻いて保管していました。今でも本などを一巻、二巻と数えるのはその名残りです。手紙の類などは板状のものに書いてあるものが多かったようです)に文書や手紙などを書いていました。これは紙に比べると著しくかさ張り保管場所もとるし、造る手間も書きにくさも紙の比ではありません。大量に紙が作られる製法が確立し、その利便さが解かってきたらおそらく紙は凄い勢いで木簡・竹簡に取って代わったと思われます。

わが国でも木簡は出土しており、今のところ最古の年代の記してあるものは大阪市の難波宮跡から出土した遺物で「戊申」(六四八年)のもので、これは大化の改新の三年後にあたり、興味深い内容がたくさん見て取れます。わが国でも木簡は当時の生活習慣、歴史的事実を伝え知る貴重な資料です。

篆刻雑記(七)

璽・印について

古代中国ではまだ印という呼び方はなく「《金篇にホ》でじ)」と言っていました。

印という語は秦の始皇帝の時代に名づけられたものです。

秦の時代には様々な規則、法制とともに官印の様式、制式なども定められました。

この時に皇帝の印を『璽』と称し、その臣下のものを『印』と呼ぶようになったのです。

印を製作するときの材も定められていました。

皇帝の璽は玉で作られました。

臣下の印はその身分、役職により金・銀・銅などの金属を鋳造して作られました。

璽・印はそれぞれ皇帝の証、権力者の象徴としてその権益を示す重要なものだったのです。

秦漢時代の官印は役職に任命されるとき辞令のように渡され、任を解かれるときは返したようです。

その役職にあたるときは印綬という紐で腰にぶら下げ自分の信を表す証としていたようです。

この時代の官印のほとんどは銅を主成分とする金属製ですから、印を刻るという言い方はあてはまりません。

溶かした金属を型に流し込む鋳造という技術で作られたと考えられています。

この型をとる時に印の原型を蜜蝋のようなもので作ったと考えれています。

この時に印面の文字は入れられたと思われ、この原型には刻るという言葉が使えるかもしれません。この蜜蝋で作った原型は型をとり終えたら熱し溶かされて型の外に出されます。

その型の中に溶かした金属が流し込まれるわけです。

この技術は青銅器の技術にも共通し、殷周あたりの精密、精緻な鋳造技術は現代でも再現は難しいそうです。

 また官印以外にも印は数多く存在しており多種多様な様式を示しています

これらは官印に対して『私印』と呼んでいます。

 

篆刻雑記(六)

回文印について

 

前に印文は右行より左に向かって読むと記しました。

しかしこれも例外があります。

特に中国の方は一字姓二字名の人が多くおられます。

これに『印』字を付加し四文字にし原則どおり並べると困ったことが起こります。

二文字目は姓の一部なのか、名の一部なのか解からなくなるということです。

このような誤読を避けるために『回文』という手法が用いられます。

一字姓二字名の場合、右行、姓の下に『印』の字を持ってきて左行に名を入れるのです。

そしてこのように右下位置に『印』の字があるときは要注意です。

このような場合は右上字から左回りに読んで最後に印を読むという約束があるのです。

この手法により姓と名が別行に別れて間違って読むことがなくなるわけです。

便利な方法ですが、前述のようになんでも回文にできるわけではなく、印の字が右下にある時のみの約束事です。

文字の画数などの関係で回文にしている印を見かけますが、本来これはアウトです。

ことわらなくては誰にもわからないわけですから。せめて側款(印の側面に刻った篆刻の落款)にはこの事を明記しておくべきです。

この約束を知っていれば自分で印を作るときにこの手法を取り入れることもできるのです。

 

姓名印の印文省略

 

前に中国の方は一字姓が多いと書きました。

日本では二、三字姓の一字のみを取り、中国人風にペンネームのように使うことがあります。

印でも同じように姓の一字を取り、あとを省略する手法があります。

もう亡くなられましたが、長い間「長揚石」先生の「長」が本姓と思っていました。

実は「長谷川」というのが本姓だったということもありました。

また名の方でも長い名前の人などが上の一字、二字を取ってあとを省略する事もあります。

これは印のバリエーションを増やす意味でも利用価値は高いのです。

しかしあくまで姓名全部が入っていることが正式という事を忘れては行けません。

篆刻雑記(五)

姓名印について


姓名印は白文印で刻るのが通例です。

文字通り姓と名の両方が入っているものが正式です。

日本では女性は結婚すると姓が変わったりするので名のみの印も認知されています。

姓のみの印は書画の落款印にはほとんど使いません。

製作者を示すための落款ですから、姓だけでは製作者が特定できないからです。

中国の方などは姓の種類が少ないので、同姓の方が多くいます。

中国では姓の印を使いたい場合、姓の下に『氏』の字を添加します。

日本でいうと一族というニュアンスで『家』のような感覚でしょうか。

特に収蔵印などでは日本でも「○○家蔵」などと使われます。

 

また姓名の文字の字数、繁簡、バランスなどによって文字が添加されることがあります。

姓名・名の後に『印』 之印』 『私印』 『信印』 『印信』 『之印信』などの文字を付加したりします。

姓名印に限らず印文は右側(右行)より左側(左行)にむかって読むのが大原則です。

姓名印は白文四文字印が各文字スペースも正方形になり、最も安定し美しくなります。

範とする秦漢の官印もこの白文四字印文のものが多くみられます。

印篆と呼ばれる秦漢の印に用いられた文字もほとんど正方形の外形輪郭を持っています。

ついつい文字のみ観てしまいますが文字以外の部分を注目してみます。

注視してみるとそこにはきれいな「田」字形の赤い(コピーでは黒い)部分が見えてきます。

印においてはこの文字間や文字と外輪郭との間隔も重要なのです。

印全体における朱白の配分バランスなども製作・鑑賞においても重要なポイントです。

 

また前漢と後漢の間に挟まれた新莾の時代には五行説が流行って印文もわざわざ五文字にしています。

姓名が五文字の人は参考になります。

 

また地方の蛮族の長(王)などに与えた印などは多字数のものが見られます。

有名な『漢委奴国王金印もこの種のものです。

長い姓名の人や付加語をつけ印のバリエーションが欲しい人などの参考になります。