篆刻雑記(十三)

金印について


内印が金印という事を記しましたが、天正十四年(一五八ニ年)に秀吉が太政大臣に任ぜられ、豊臣姓を賜った時に造った「豊臣」という印文の印面八・九センチ四方の大印が黄金製だったということです。この印は主に海外渡航の際の朱印状に用いられ、その他特に求められ高野山興山寺所蔵の謡曲本にも押印されているそうです。

 

また金印というとすぐ頭に浮かぶのは、国宝に指定されている後漢の時代に光武帝より賜ったという金印です。この印は天明四年(一七八四年)、筑前国那珂郡志賀島(博多の志賀島)から出土しました。高さ2センチ2ミリ、蛇の彫刻を施されたその金印は長く地中に埋もれていたとは思えないほどのまばゆい輝きを放っており、その2センチ3ミリ四方の印面には陰刻(白文)で『漢委奴国王』という五文字が刻まれており、「漢の委(倭)の奴の国王」とか「漢の委奴国王」などと読まれています。「後漢書」の東夷倭伝に光武帝の中元二年(五七年)、倭奴国の使者が朝貢して印綬を賜ったということが記載されており、この金印がこの記述にあたるものなのかどうか真偽をめぐり昔から様々な論争がなされてきましたが、現在ではこの金印を疑う人はほとんどなく国宝に指定されています。邪馬台国論争のよりどころ「魏志」倭人伝にも記されている「奴国」の存在を裏付ける証拠ともいわれたり、「伊都国」のが「委奴」と刻されているというのが前述の二通りの読み方の解釈なのですが、ほかにも解釈があるようです。

 

邪馬台国論争がでてきましたところで、邪馬台国にまつわる金印の話をひとつ。じつは「魏志」倭人伝によると日本には金印がもうひとつ伝わっているはずなのです。景初三年(ニ三九年)邪馬台国の女王卑弥呼は魏に遣使し、翌正始元年に『親魏倭王』の称号と金印を授与されている沿うなのです。中国に貢物を持っていって金印をひとつと銀印を二つ賜っているそうなのですが、おそらく金印の印文は先に述べた『親魏倭王』というものと思われます。この印が出土すれば邪馬台国論争に終止符がうたれるかもしれません。

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